Share

5話 客席の拍手

Penulis: YuIm
last update Tanggal publikasi: 2026-10-28 18:56:52

「これをつけて行けばいいかしら?」

母の家の玄関にある鏡の前で、美佐子がネックレスを持ち上げた。靴を履きかけた紬は顔を上げた。母が取り出したのは、小さな真珠のついたネックレスだった。

「うん。よく似合うよ」

「あんたはどうしてそんなに地味な格好なの。写真も撮るでしょうに」

「私が舞台に上がるわけじゃないから」

紬はコートの袖を少し下ろし、手首のサポーターを隠した。朝、会場から連絡があり、画像を1枚送り直した。もともと切り取ってあった絵の上の部分が、画面からまた欠けていたのだ。タオルが見えるようにしてほしいと説明している間に手首が痛み、サポーターを巻いたところだった。

美佐子は直人が何時に来るのか尋ねた。直人は先に会場へ行った。控室で準備することがあると言い、紬には母を連れて来るようメッセージを残していた。

「私たちも少し早めに行こう。遅れて余計な心配をかけないように」

イベントは午後2時だった。

書店の奥の会場には、『水のほとり』の単行本の改訂版が積まれていた。陳列棚の横には直人の名前が印刷された長いバナーが立っている。美佐子は入り口に着くなり、その前に立った。

「写真を1枚撮って」

紬はバッグからスマートフォンを取り出した。母はバナーの文字を隠さないよう、横へずれた。画面には美佐子の顔と直人の名前が一緒に収まった。

「もう1枚。今、目を閉じちゃったみたい」

紬はさらに2枚撮って見せた。美佐子は気に入った写真を選ぶのに夢中で、案内係の挨拶に気づかなかった。紬が代わりに名前を告げると、係の人が座席表を確認した。

「6列目の通路側に2席ご用意しております」

椅子にはそれぞれ小さな紙が貼られていた。紬の席には名前の代わりに、家族席と書かれている。美佐子は座るなり、舞台がよく見えると喜んだ。

紬も舞台後ろの画面を見た。さっき送り直した画像がきちんと映っていた。ドアの横にかかった濡れたタオルも、その下に置かれた女の長靴も全部見える。直人がインタビューで好きな場面としてよく挙げていた絵だった。

「これ、有名な絵でしょう?」

美佐子が尋ねた。

「うん」

「うちの娘婿は、どうやってこんなことを思いつくんだろうね」

紬はコートのボタンを外した。母に、絵を描いていたときの話をすることもできた。長靴が新品に見えすぎて、靴底についた泥を描き直したこと。タオルは家で使っていたものを撮影して参考にしたこと。

けれど舞台の前でマイクを確認する音がして、紬は話そうとしたことを後回しにした。

控室のドアが開き、直人が出てきた。人々の視線が一斉にそちらへ向く。客席を見渡していた彼は、美佐子と紬を見つけると笑って手を上げた。

美佐子はすぐに手を振った。

「あんなに忙しいのに、ちゃんと見てるね」

紬は直人が近づいてくると思い、バッグを膝から下ろした。彼は舞台の脇で係の人と短く言葉を交わすと、そのまま壇上に上がった。バッグを下ろした紬の足元に、客席の案内用紙が滑ってきた。

司会者が作家を紹介すると、拍手が始まった。

直人は椅子に座る前に一礼した。照明が当たり、シャツの袖が明るく光った。紬がクリーニング店から受け取り、クローゼットの前にかけておいたシャツだった。

最初は、作品を作るまでの過程についての質問だった。直人は資料をたくさん見て、人を観察すると答えた。それから舞台の後ろに映された場面を指した。

「僕はセリフを先に書くより、行動を考えるほうなんです。この場面でも、女性が何を言うかより、靴をどう脱ぐかを先に考えました」

紬は膝の上に置いていた手を開いた。直人が紬から聞いた説明だった。あの夜も彼はセリフをもっと入れてはどうかと言い、紬は靴を見ればわかると答えた。

長靴をそろえて脱ぐ人と、適当に脱ぎ捨てて入る人は、同じ言葉を口にしても、伝わる気持ちは違う、と。

直人は身振りを交えて話を続けた。紬は知らず知らずのうちに最後まで聞いていた。自分がした説明なのに、彼が話すとずっと滑らかに聞こえた。

「あのタオルにも意図があるんですか?」

司会者が尋ねた。

「ええ。前の場面で雨に濡れたと言っていますから。入ってすぐにああやってかけておくところを見ると、1人で暮らす空間に慣れた人だとわかるんです」

紬はタオルを見た。あのタオルは、1人で暮らす人が使いやすいからかけておいたものではなかった。誰かが帰ってきて使えるよう、乾いた面を手前に折っておいたものだ。前の回のセリフまで読めばわかった。

司会者がうなずき、客席からも小さな感嘆の声が上がった。紬は手を挙げなかった。説明を1つ正すために席を立つことはできなかった。

ライブドローイングの順番になると、直人の表情がほぐれた。彼はタブレットに代表作の男性主人公の顔を描いた。何度も線を重ねず、目元と顎の線を一度で決めた。紬も、彼はこういう顔を描くときは速いと認めていた。

隣の美佐子が小さな声で言った。

「目をさっと描いただけで、人になるんだね」

今度は紬もうなずいた。あれは直人にできることだった。彼が自分で作ったデビュー短編でも、目元が好きだった。あのとき気に入っていた線が一瞬見え、紬が長く描いてきた人物の顔の中に入っていった。

1人の読者が手を挙げた。

「私は、さっき見せていただいた長靴の場面が一番好きでした。泣いたり怒ったりする表情はないのに、なぜか切なくて」

マイクを持った読者は言葉を選んでから笑った。

「私も誰かが出ていくと、まず靴を片づけるんです。待ってるって、知られたくなくて」

紬はそちらを見た。数列前に座る女性だった。本には薄い付箋が何枚も貼られていた。

待っていると知られたくない。

紬は無意識に、ペンを探すように指を動かした。自分が描いたときに考えていたことをまったく知らない人が、別の言葉でわかってくれた。

直人はいい感想だと答えた。絵は読者が完成させてくれるような気がする、とつけ加えると、司会者は笑って次の質問に移った。紬は前のほうに座る女性が本を閉じるまで、そちらを見ていた。

次の質問は、仕事と生活をどう分けているかというものだった。

「今日は奥様もいらっしゃっていると伺いました。ご家族が先生の最初の読者でもあるんですか?」

司会者が客席を見渡した。紬は反射的にコートの袖をさらに下ろした。美佐子が娘の背中を軽く押して笑う。

「こっちです。ここですよ」

何人かが振り返った。

直人はマイクを持ったまま、紬のほうへうなずいた。

「ええ。家でいろいろ意見はもらっています」

紬はその言葉を聞いて直人を見た。家ではあまりしない言い方だった。意見をくれるという言葉でもよかった。その先にも、まだ言葉が続く気がした。

「同じ分野でお仕事をされているんですか?」

「いえ。うちの妻は絵が描けないんです」

軽い笑いが起きた。

直人も笑いながらマイクを少し下げた。つけ加える声まで軽かったので、客席には冗談が続いているように聞こえただろう。

「その代わり、家ではよく支えてくれるんです。僕は外ではちゃんとして見えても、家では手がかかるものですから。妻のおかげで絵だけを描いていられます」

司会者はうなずき、拍手を促した。作家を陰で支える家族にも感謝を、という言葉が客席へ向けられた。

紬は直人を見ていた。

さっきまで自分の絵をわかってくれた読者が座っていた方向からも、拍手が聞こえた。美佐子はうれしそうに笑い、娘の腕をたたいた。

「あんたに感謝してるって言ってるじゃない」

紬は手を上げ、拍手をした。みんながこちらを見ている。今笑わなければ、感謝の言葉を聞いても機嫌を損ねる妻になりそうだった。

手のひらが何度か合わさると、袖口からサポーターがのぞいた。紬は腕を下ろし、もう一度隠した。

イベントは予定の時間を少し過ぎて終わった。直人はサイン用のテーブルへ移り、人々は本を持って列に並んだ。美佐子も友達にあげる本を2冊用意し、紬に順番を尋ねた。

「今、行ってもいいのかしら?」

「ほかの人が終わってからね」

「私たちなら少しで済むのに」

紬は本を受け取り、バッグに入れた。直人が近くに来たら一緒に頼むと言って、母をしばらくカフェのほうへ行かせた。人の間に立っているのがつらかった。だからといって何も言わずに家へ帰りたくはなかった。

サインの列が少し途切れたとき、直人が水を飲もうと立ち上がった。紬はテーブルの横へ近づいた。

「さっき、どうしてあんなふうに言ったの?」

彼はペットボトルの蓋を開けながら尋ねた。

「何を?」

「私が絵を描けないって」

「ああ、あれ? ただ笑ってもらおうと思って言っただけだよ」

「私は笑えなかった」

直人は周囲を一度見た。社員が本を整理し、近くにはまだ数人の読者が残っていた。彼は紬のほうへ少し体を傾けた。

「ここでどうしても、その話をしなきゃだめ?」

「じゃあ、いつ話すの」

「君に感謝してるって言っただろ。みんないい話だと思って聞いてたのに、わざわざその言葉だけ取り上げられたら、俺も何て言えばいいんだよ」

紬はバッグから本を出し、テーブルに置いた。ビニールの角が指に引っかかった。

「絵が描けないなんて、言わなくてもよかったじゃない」

直人はボトルの蓋を閉めた。答えようとしたが、係の人が次の読者を案内すると、また席に座った。

「家に帰ってから話そう。今日は少し手伝ってよ」

美佐子から預かった本には後でサインすると言った。紬は本をバッグに戻し、カフェへ行った。母はもうイベントの写真を何人もの人に送っていた。

「うちの娘婿、話が上手だったね。前からあんなに気の利いた人だったかしら?」

紬は座らずに母のコートを持った。

「お母さん、もう帰ろう」

家に戻っても、手首のサポーターを外せなかった。紬はキッチンの明かりだけつけ、食卓にバッグを置いた。2冊の本が傾いて出てきたので、そのまま立てておいた。

電話をかけてきたのは美佐子だった。

「本、置いてきたんじゃないでしょうね?」

「私が持ってるよ。直人さんが帰ってきたら話すね」

「あんた、今日何かあった? 終わってから、ずいぶん顔色が悪かったから」

紬は食卓の角に触れ、手を止めた。母が気づいていたのだと思うと、声が少し和らいだ。

「お母さん。さっき直人さん、私が絵を描けないって言ったでしょう」

「それがどうしたの?」

「絵の話をしていて、あんなふうに言われたから、ちょっと……」

「ただ笑ってもらおうとして言ったんでしょう。そんなこと、気にしてるの?」

紬は本を包むビニールを外さなかった。母が続ける。

「人前であんたのおかげだとも言ってたじゃない。男の人がそういうことを言うのは簡単じゃないんだよ」

「感謝の言葉じゃなくて、私は……」

「紬、あんたが今どれだけ楽に暮らしているか考えてみなさい。売れっ子の旦那さんと結婚して、住むところにも食べるものにも困ってないでしょう。いちいち言葉を取り上げていたら、誰が一緒に暮らせるの」

紬はコートの袖をまくった。サポーターの下には、押さえつけられた跡が長く残っていた。手首を少し動かすと、朝直した絵を思い出した。タオルが見えるようにしてほしいと送り直したファイルだった。

美佐子は少しの間、娘の答えを待った。

紬が言葉を見つけられずにいると、母が先に電話を締めくくった。

「いい旦那さんに恵まれたんだから、感謝して、あんたが少し我慢して暮らしなさい」

Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi

Bab terbaru

  • 死んだ妻の漫画の連載が始まった   21話 受賞の言葉

    紬が目を開けると、廊下の先に夫の靴が見えた。昨夜は帰ってくる音を聞かなかった。ドアを開けたままの小さな部屋で体を起こすと、リビングにいた直人がシャツの袖を引きながら尋ねた。「昨日、電話してたね」「うん」紬はベッドの縁に腰掛け、床に足を下ろした。直人が部屋の入口に近づくと、膝に置いていた手を開いた。「昨日、病院に電話したの。食事もあまり取れないし、体が……」「病院は何て?」「様子を見て、また連絡するようにって。でも、一人だと……」直人のスマートフォンが鳴った。彼は画面に目を落とした。「ちょっと待って。もう車が来た」シャツのボタンを留めかけの手で電話に出て、スマートフォンを肩と耳の間に挟んだ。「はい、今下ります。5分で。資料は持っています」紬はスリッパを履いた。電話が終わるまで待っていたが、直人は折り畳んだイベントの資料を先に鞄へしまった。7月9日、水曜日。用紙の一番上には、今日の日付が大きく記されていた。「授賞式は夜じゃないの?」「昼から撮影と対談の準備もあるんだ。今日、終わったら連絡する。打ち上げもあるから」「遅くなるって言ってたね」直人は鞄を持ち上げながら、妻のコップを脇へ押しやった。「ちゃんと食べておけよ。昨日頼んだもの、残ってるだろ」「さっきの話、帰ってきたら聞いてくれる?」「あ

  • 死んだ妻の漫画の連載が始まった   20話 出なかった電話

    直人は引き出しを開け、ネクタイを探していた。必要な色を言わず、あのとき締めたものとしか言わないので、紬にはどれを指しているかわからなかった。リビングから戻った彼がシャツをベッドに広げると、袖口が彼女のバッグに引っかかった。「検査に行くときのバッグ、別のところに置けない?」紬はバッグを椅子の横へ移した。中の書類は取り出さなかった。前日に診察を受けて帰宅し、入れておいたままだった。7月8日の朝だった。直人は翌日の授賞式の動線を確認しながら、今日もリハーサルと関係者との約束があると言った。紬が食卓に置いた水の入ったコップを持つと、彼は遅れて彼女のほうを見た。「明日は行けそう?」「行けないと思う」「まだそんなに具合が悪いの?」「うん」直人はそこでようやく、しばらく彼女を見た。紬はカップを食卓に置いて待った。どこがどんなふうに悪いのか尋ねられたら、前日に聞いた話から伝えればいいと思った。「じゃあ家で休んで。イベントが長引いたら座っているのもつらいだろうし」彼は出席者を確認する画面に戻った。家族席に名前を書く欄が見えて、消えた。紬は誰に連絡しているのか尋ねなかった。自分が行けない席に別の人を座らせることまで確かめたくなかった。「夕食は?」「今日は外で食べる。明日も早く帰るのは難しいと思う」紬はうなずいた。夫はまたネクタイについて尋ねた。彼女が知っているのは、引き出しのどの段にネクタイが入っているかまでだった。「一番下の段にあるよ。そこで探して」直人は引き出しを強く閉め、また開けた。しばらくして見つかったとも言わず、スマートフ

  • 死んだ妻の漫画の連載が始まった   19話 残しておいた順番

    青い印のついた原稿を数えながら、紬は17番目で手を止めた。前に数えた束をもう一度数えていた。紙をすべて床に広げれば一目で見えるだろうが、かがんで立ち上がることを何度できるかわからなかった。彼女は机の上に5編ずつだけ置くことにした。順番を決めた束は左に、まだ確かめていないものは右に置いた。原稿を整理する方法まで、昔と同じである必要はなかった。6月29日だった。窓の外ではエアコンの室外機の音がずっと聞こえていた。紬は風が直接当たらないよう椅子の向きを変え、真帆から受け取った撮影データを開いた。紙に残った場面と画面に表示された場面を並べて確認できた。6月も診察は続いた。治療を受けた後に体調が悪くなって次の投薬を調整したこともあり、食事が難しかったり痛みが強くなったりして予定の外来より先に連絡した日もあった。紬は調子のいい日にできることをまとめて終わらせようとし、翌日ほとんどベッドから起きられなくなってからは、時間を短く分けた。今日は午前中に原稿の前半だけを見るつもりだった。真帆と会う午後までに全部終えなければならないとは、誰にも言っていない。立ち上がって休んでいる間は、作業一覧の印が増えなくてもよかった。最初の束を開くと、雨上がりのバス停が出てきた。女が濡れたベンチの一席を拭く最初のコマだった。紬はその絵を前にして、しばらくほかのページをめくらなかった。見慣れた場面の始まりと、自分の名前が同じ一覧に書かれていた。その後に入れる原稿は一度には決めなかった。カップを洗いながら窓のほうを見る女の話は少し前に、降りる場所を通り過ぎて花屋に入る話はその後に置いた。1人でパンを食べる女と服を選ぶ女が続くと、2編の間に別の季節の場面を挟んだ。女が同じ場所に立ち止まったままの人として読まれてほしくなかった。戻り、出かけ、何もしない日もあったのだから。紬は新しいセリフを書く代わりに、すでに描いた場面の間隔を見た。数年前に描いた紙には、当時の日付が余白に残っていた。最近1コマを変えた原稿もあった。紬は修正した日付と変えた部分を作業一覧に書き足した。元の絵と修正後の絵を同じファイルだと取り違えないよう、真帆が求めた印だった。病院へ行った日の場面は、その日以降に描いたものだった。春に書き留めたメモをもとに、後から構図を直した場面には、その時期も残した。紬は実際に経験したことと

  • 死んだ妻の漫画の連載が始まった   18話 担当の終了

    5月7日の午後、紬は入院用バッグを横に立て、改めて診察を待った。朝に予定していた手続きは変わっていた。体の状態を診てもらい、必要な処置を受け、次の診察を決めるまで、バッグは椅子の横に置いたままだった。職員が予定を確認しながら尋ねた。「次はこの時間に来られますか?」「はい。来られます」紬は手帳に日付を書き、新しい予約を確認した。翌日また病院へ行き、その後の調整を経て5月12日に入院した。荷物を解くと、バッグからしわになった案内が出てきた。先週使うはずだった紙だった。彼女は捨てずに別の書類の下へ入れた。入院中の一日は、検査と診察の時間に合わせて流れた。その合間はベッドに横になって休んだ。直人からファイルの場所を尋ねられると、フォルダーの名前だけを答えた。いつ家に帰るのかという質問には、退院の日はまだわからないと言った。病院でパソコンを使えるかという問いには、答えずにおいた。医師は病気が胃の外まで広がっていると説明した。手術ですべてを取り除くのは難しい状態で、薬物治療を含めた可能な方法を検討しなければならなかった。紬は説明を聞きながら手帳を開き、ペンを置いた。今回はすべてを書こうとせず、先に耳を傾けた。「それでは、手術はしないんですか?」「今確認できている範囲では、手術で取り除く治療を優先するのは難しいです。病気の進行を抑える治療を検討しながら、食事の問題や痛みも併せて調整する必要があります」「何もできないわけではないですよね?」医師は、今できることと、体の状態に合わせて調整すべきことを分けて話した。紬は治療を受けたいと答えた。可能ならいつ始められるかも尋ねた。入院中は、食べられる量や不快な症状を伝えることも治療の一部だった。痛みが少ないと答えれば早く家に帰れる気がして、ついそう答えそうになる癖が残っていて、看護師に尋ねられるたびに紬は少し考えなければならなかった。いつ痛みが強かったか、食べた後に何がつらかったかを話すには時間がかかった。それでも、その言葉を書き留める人がいた。退院の会計をしながら、紬は自分の口座の残高を確認した。個人原稿の前払い金が入ってから初めて支払う入院費だった。金額を確認して支払い、残ったお金で次の診察と移動に使う費用を計算した。家に生活費がいつ入るのか直人に尋ねる必要が減った分、自分の予約を先に書き込めた。退院時に

  • 死んだ妻の漫画の連載が始まった   17話 閉ざされた仕事部屋

    5月7日の朝、旅行用バッグは玄関に置かれていた。紬は病院から持参するよう言われた書類を確認し、スマートフォンにタクシーの配車画面を表示した。まだ呼び出しボタンは押していなかった。後ろから直人が紙を1枚差し出したからだった。「これ、1行だけ見て」紬は時刻を確かめた。8時55分だった。「もう出ないと」「病院は10時だろ。読むのに1分もかからないよ」彼が持ってきたのは祝いの動画の台本だった。先週資料を送った後、追加撮影用にもう一度直してほしいと依頼が来たという。紬が書いていない文が途中に入っていた。古い原稿から人物のセリフを抜き出し、作家自身の経験であるかのようにつなげた部分だった。「これ、登場人物が言った言葉でしょう」「だからちょっと変だなって。俺が言ったことみたいに変えられない?」「削ればいいよ」「削ったら前の動画と合わないって言ってるだろ」直人は紙の向きを変え、紬のほうへさらに押し出した。紬はスマートフォンを食卓に置き、削る文に印をつけた。出発を遅らせずにできる最後のことだと思った。線を引くと直人は、その後に続ける言葉を尋ねた。「それはあなたがやって。考えてあるんでしょう」「今のまま渡せってこと?」紬はペンを置いた。直人は撮影担当者に電話をかけ、30分以内に送ると言った。紬にできるかどうかも聞かずに交わした約束だった。通話が終わるのを待って紬がバッグを持つと、彼は小さな部屋を指した。「原稿も一緒に開いて見ないと。場面の順番が変わったから」「今日はできないって言ったよ」「入院してもすぐに何かするわけじゃないだろ。受付が少し遅れるだけじゃないの?」「あなたが決めることじゃない」声が大きくなると、直人はリビングの窓のほうを見た。外で聞く人を意識するその動きのせいで、紬は思わず抑えようとした声を、そのままにした。「病院に行かないといけないって、何度言ったと思う? 日付も2回変えたの」「だから今日終わらせてから行けばいいだろ」直人は同じ説明を繰り返しながら、撮影担当者にまた電話をかけた。通話が終われば出かけられると思ったが、終わるたびに別の紙を差し出した。小さな部屋の机には前日に印刷した場面が残っていた。紬は夫がそれを口実にまた引き止めないよう、確認の終わった紙だけを手に取った。パソコンをつけて新しく直すつもりはなかった。リビング

  • 死んだ妻の漫画の連載が始まった   16話 次の入院日

    紬は返してもらった封筒を机の引き出しの奥に入れた。真帆が保管する原稿の一覧には、その封筒は載っていなかった。一覧を折ってファイルに挟んでも、机の上にはまだたくさんの紙が残っていたので、すぐに必要な病院の案内からバッグに入れた。4月16日の診察には、予約の時刻より少し早く着いた。前の検査資料がきちんと届いているか確かめて座っていると、看護師が最近の食事の量を尋ねた。紬はちゃんと食べていると答えかけ、前日に食べたものを順に話した。口にしてみると、自分で思っていたより少なかった。診察室では検査結果と体の状態を一緒に見た。医師は病気がどこまで広がっているかさらに確認し、治療計画を決めるために入院して評価を受けるよう勧めた。食べる量が減ったことも併せて調べる必要があった。「何日くらいと考えればいいですか?」「検査やお体の状態によって変わることがあります。まず入院して必要な評価を行い、計画をご説明します」紬はカレンダーを開いた。医師が待ってくれる間に、画面に夫の予定が表示されたので、自分の予約を書いた小さな手帳を別に取り出した。4月23日の横には何も書かれていなかった。「その日にしてください」彼女は日付を書き留めた。病院では、それまでの間にも症状が強くなったら、予定日を待たずに連絡するよう言われた。診察室を出ると、真っ先に来週の原稿のことが浮かんだ。紬はメッセージ画面を開こうとした手を止め、入院の持ち物の案内から読んだ。足りないものを書き留め、薬局に寄ってから家に帰った。直人に日付を話したのは、その日の夕方だった。彼はモニターから目を離さず、どのくらいかかるのかと尋ねた。「まだわからないの。検査ももっと必要だし、治療の計画を決めるって」「じゃあ、検査にどれくらい時間がかかるかもわからないの?」「やってみてから決めるんだって」紬はバッグから案内を出し、食卓に置いた。直人は紙を読む代わりに、メッセージで届いた修正依頼を確認した。来週までに渡さなければならない原稿に問題が出たという。登場人物がけんかする理由がわかりにくいという意見だった。「その部分は俺も手を入れてみたんだけど、前後がまた合わなくて」「今回はあなたが整理しないと」直人は笑うように口元を動かした。「急に君が抜けたらどうするんだよ。休むにしても、渡すものは渡してから休まないと」入院して

Bab Lainnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status